私の独り言

野望編

この会社を設立して 今年(2021年11月)で設立32年になります。私も節目の60歳になりました。今でも ハッキリ思い出しますが 工業高校3年の ある昼休みに校庭を眺めながら こんな事を考えため息をついてました 就職も決まり卒業して真面目にサラリーマンで働いて そのうち結婚して 幸せな家庭を築いて 親からは真面目になって よかったねと言われて あー俺の人生レールに乗ってしまったな 面白くないなと考えてる時ちょっと待てよ みんな卒業してスタートは一緒だけど 志し次第で10年後 30年後大きな差が出るに違いない それなら俺は自分で会社を作ろうと高校3年の時決めました。
親はサラリーマンで家は貧乏でした。だから後を継ぐとかコネとかないので 裸一貫で頑張るしかありませんでした 25歳までには自分の会社を作ると目標を決め 平成元年1989年の11月に学校の親友と2人で 夢を膨らませ希望に燃え有限会社ワールドサービスを立ち上げました 25歳の時です。 23歳の時 親友と合うたびに何か自分達の力だけで会社を作りたいと話になり 成功する人は 何の商売を手がけても成功するだろう(弘法筆を選ばず) その為には何をするか決める前に 何をやっても成功するように考え方 心構えを勉強しようと ナポレオンヒルが書いた成功哲学(今でもボロボロですが)を教科書代わりに2冊買って 毎週土曜日お互いの家を行き来し毎回4時間 勉強してました 平日はアルバイトしながら2人で会社の設立資金の為 貯金しました。(学生時代より全然真面目でがむしゃらでした)
成功哲学は13段階あるので毎月1つのテーマを勉強して 全テーマが終って1ヶ月の間に何をするか じっくり話し合いました。 その時はどんな商売も自分達ら上手くいくと
自信満々でした(笑)しかし何をやるか決めようとすると何がいいのか わかりません
自分達には金もコネもない しかし相棒にコネがありました。

会社設立~別れと1度目の挫折

相棒のおじさんがベストサービスの所長で家電工事と配送設置の仕事なら 業者として出来るかもと言ったので 金もコネもない自分たちが最初に取り組むには これしかないと思い頼み込み ベストの業者になりました 当時バブルど真ん中(1986年12月~1991年2月)でベスト電器は売上日本1の家電量販店でしたので 案の定仕事も豊富にあり 従業員も5人 6人と増えていきました 当時は今もそうですが 配送設置と工事がハッキリ分れてましたが 私達は夏はエアコン工事 春や冬は配送設置と忙しい方をやらせてもらう初めての業者でした。
怖いくらい順調に伸びていきましたが 私はこの異常な景気は続かないだろうから今のうちに次の仕事をと思い ダイキンで業務用エアコンの工事に取り組みました。すると同じくバブルが弾け一気に仕事量が激減しました。あっという間で間に合いませんでした。
従業員も全員いなくなり 親友との仲も崩れ借金だけが残り1人での再スタートになりました。何とか細々とやってました 従業員も1人入れエアコン工事を色々な所から受けて
食いつないでました その時携帯の基地局(エリクソン)の配線の工事を孫請けですが やらないかと言われ飛びつきました しかし2年位経つと仕事が無くなり 業者である私達が1番に切られました。

再浮上と2度目の挫折と人間不信

ちょうどその時 デスクトップパソコンが普及し始めて
うちの従業員が趣味がパソコンで メーカーの下手な従業員より詳しかったので ベストサービスの伝手を頼って まだ何処にもなかったパソコンサポートサービスをベストのお偉い方に提案しに行きました。
結論から言いますと ボロクソに言われ サービスでお金を お客様から頂けない それよりSE等を探してると訳の分からない事を言われ 凄く落ち込みました。
しかし同じ事をヤマダ電機に提案してた関西の会社を見つけ 協力会社を探してたので
すぐにお願いして 試験的に全国10店舗で開始したなかの 博多店の介護用品売り場の横で始めました 当時 ヤマダ電機は売上日本一になり積極的にサービスを取り入れてました。但し試験的な試みの為3ヶ月を見て 全国的に開始するか結果を見て判断するとの事でした その期間思った以上の結果が出て直ぐに 全国展開になり1年後には九州全店(鹿児島以外)と東京本店のパソコンサポートを受注するまでになり 売上もうなぎ上りになり社員も60人に増え 関西の会社もヤマダ電機の子会社になりました その関西の子会社から一緒に別会社を立ち上げないかと誘われました。断りかったのですが
仕事を頂いているいじょう 断れず 新会社を立ち上げました 関西の会社の社長の狙いは うちの会社を吸収して事実上の社員の引き抜きでした 有能な社員もいなくなり 今度はあっという間に借金地獄になり 私はその会社から離れましたが1億近の借金が残りました。
私は人間不信になり 自分自身にも嫌になり 鬱病になって1年間は家にこもってました。
しかし家に籠っていても 誰も助けてくれないし状況も何も変わりません 妻も家庭もある身なので 働くしかないやるしかないと思ってる時 ある方からスポンサーも紹介するので責任者として 関東で家電の配送設置をやってみないかと声をかけられました。

井の中の蛙 東京で勝負も…….

その時お金は勿論ありませんし 東京で一花咲かせよう立派になって借金返して また福岡に戻ろう ここでリセットする気持ちで 単身赴任で関東に行きました。しかしよくある話で スポンサーはお金を全然出さず ホテル代駐車場代 全部立替で益々 苦しくなるばかりで おまけに関東に来て1週間目に親父が亡くなり 喪主として急遽福岡に日帰りでとんぼ返り ホントに惨めでした スポンサーはやはりだめで 別の会社の新しい部署として家電配送の責任者として入社(私の会社は休眠会社にしてました)現場を出る人も少ないのと最初は私も現場を知りたいので経験したいと無理やり現場に出ました(10何年ぶり)しばらくやってないのと 土地勘が無いし ナビはダメで(ナビは出始めの為 全然使い物にならない)毎日 配工センターに 一番遅く戻って 使い物にならないと文句は言われ 食事もする時間もなく ガリガリになり精神が福岡に居る時より ひどい状態になってました 良くなる為に関東に来たのに前より ひどくなって こんな時人は自殺するんだろうな よくここまで酷い事がおきるよなと 呆れて笑いが出そうでした   その時突然 もう出来ないとか無理とか駄目とか絶対思わないようにしよう何でもどんどん来い 何が何でもやってやるという(矢でも鉄砲でももってこい) 開き直りか何だか分からない気持ちになりグッと突然目覚めたような気分になりました。

確変 1度目の目覚め!

それから どんとこい 何とかなる(何とかする)の気持ちで行動しだしたら。
周りの状況が急に変わりだしました(たぶん周りじゃなく自分が変わったが その時は周りが変わったと思えた)積極的に問題に取り組み 不可能と言われる事も 可能になっていき 借金もガンガン返済できるようになりました。この時の感覚は今も忘れないし 今も生きてます 自分に問題が降りかかってきたら 逃げずに受け止め 乗り越える努力が経験となり その乗り越えた経験が多いほど 器が大きくなります。

我が故郷 福岡に戻る

2011年福岡に戻りました 3年間の武者修行でした この3年間の経験 行動 考え方が今考えると 今の私の根っこになったような気がします。
2011年は日本で忘れられない様な事が起きました。2011年3月11日 後々 語り継がれるであろう東日本大震災を東京に住んでましたので体験しました 3分位揺れた様に感じました東京は震度5強だったと思います(宮城県 栗原市は震度7)5でしたが強烈でした。
家に戻りTVを見るとパニック映画の様な大津波を見て唖然となり 次の日の朝ガソリンスタンドのガソリンが売り切れと紙に手書きで書いてあるのを初めて目にしました それから給油の為スタンドに1km渋滞してるのも目にしました 地震は金曜日でしたが日曜にはコンビニの商品が殆ど売り切れてるし 交通機関 ライフラインがズタズタでになり
自然災害の凄さを 生まれて初めて見ました。
実はこの1ヵ月前にも 私の人生で初めての事がありました 私に初めての子供が福岡で授かりました女の子です。その後に大地震が発生したため 東京に居る私は 娘の傍にいたい一心で 居ても立っても居られず 福岡に戻る事にしました。
東京に約3年いる間に 不可能と思ってた借金返済も目途がたちました まだこのまま東京に居れば お金も残ったかもわかりませんが お金より娘を選んで福岡に戻りました。
福岡に戻る前 東京で何年かぶりに福岡の昔の友人に会って 彼は代表ではありませんでしたが彼の会社(エアコン工事の手配)は東京本社以外に福岡にも営業所があり 彼は会社の運営を任されてましたので 彼に福岡で働かせてもらえないか頼んでみると いいよと返事をもらい 福岡に戻る事が出来ました この会社にお世話になったお陰で 全国の色々な業者との繋がりができ 今の仕事の基礎になったような気がします

福岡に戻ったのは良いけれど…….

福岡に戻れたのは良かったのですが その営業所の売上の9割以上は引越関連に依存  (本社は引越以外)売上も立ち上げてから伸びてなく 所長はいましたが このままだと福岡の営業所は閉めないといけないと 来たばかりの私に言われました。営業所が無くななったら働く所が無くなるし 所長も来て直ぐなのに諸事情で退職されたため いきなり代わりに所長になり 1年後には売上の7割を ネットショップに変えていき 売上高も前年比の約2倍 翌年も順調に延び 2年続けて伸ばすことは出来ましたが 今迄が悪かったとの事で給与は上がら無かった上に 新しく大阪営業所を立ち上げたので 私が営業で取ってきた売上は 今度から大阪営業所の売上にすると言われ その分営業して新しい
得意先を開拓して売上げろと言われ  その後の2年間は売上は上がらず
ここで骨を埋めるつもりでしたが ここにいても自分の明るい将来は見えないと決断して   約4年間程 お世話になった会社を辞めました。
やはり自分でやるように 運命というかお膳立てというか自然と 流れがそうなってきたので もう1回今度は1人で最後のつもりで会社を再建しようと決めました。本音は年齢も55歳になり自分でやるしか道が残されてなかったのが事実で 選択の余地はありませんでした。

新たな船出

そのご 休眠してた会社を再開 お金が無いので 家を事務所代わりに携帯電話とパソコンと自分の行動力を信じて 失敗したら後がない状況で始ました。とにかく前に前に悩む時間があるんだったら行動 失敗したら あきらめず工夫して何度でもチャレンジして最後は成功に導く ここ10年位の下積み経験が考え方や行動が変わり 4年間やってきた結果 売上が4年で46倍に上がり 途中 会社名も事務所も変更する事ができ完全に生まれ変わりました!

これから!

今 考えると 辛いことも逃げずに受け入れ それを克服する事を繰り返した事により 今があると思います。あの辛かった事も 今は必要だったと考えれるようになりました。
もしあの試練がなかったら 乗り越えていなければ 今こうなってはいないはずで そうすると今迄辛かった事も もちろん良かった事も 無駄な経験は一つもなかったと言いきれます!
今後も人生も会社もまだまだ続きますが この大切な経験があればマイナスの事もプラスに プラスの事も大きなプラスに そしてライジィードの社名の意味のように
枝葉のように関わる方がプラスの種が広がっていくと信じ 皆様と力を合わせ業界を良くしていきたいと思っております。

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